Franz Liszt Ⅵ ヴァイマル宮廷楽長時代 |
【リストの伝記(福田弥 著)を読んで】 (つづき)
1848年(36歳)2月、リストはピアニストとしての全盛期にその活動を止め、ドイツ中部の小都市、ヴァイマルの宮廷楽長となりました。なぜ彼がその時期に、そのような保守的な道を選んだのか・・・。
演奏活動ではなく、作曲活動を音楽活動の中心にしたかった彼は同時に、ピアノ作品ばかりでなく、管弦楽作品を手がけたいと思っていました。それには自在にあやつれる管弦楽団をもつことは、魅力的でありました。
そしてヴァイマルは、かつてJ.S.バッハが活躍した町でもあり、ゲーテ、シラー、ヘルダーたちが活躍した、ドイツ古典主義の文化的中心地でもありました。しかし1832年、ゲーテの死に際して、ハイネが「芸術の時代の終焉」と言ったように、この町は急速に文化的中枢としての役割を失っていっていました。
そこでヴァイマルの再興をもくろんでいた、時の皇太子は、すでに音楽家として巨匠の名声を得ていたリストを宮廷楽長の地位へと打診しておりました。リスト自身もパリ時代にゲーテ、シラー、ヘルダーの文学に接し、ハイネなどを通じてドイツの情報を知っており、ヴァイマルを「ミューズの加護」を受けた土地であり、理想の土地とみなしておりました。こうして宮廷側とリストとの思惑が一致したのです。また双方には、カロリーヌを通じたつながりもあったようです。
ここでリストは、オペラとオーケストラを指揮するようにもなりました。1849年のゲーテ生誕100周年記念祭は、クライマックスにベートーヴェンの第九交響曲のヴァイマル初演を行っています。
そして1850年には、ワーグナー「ローエングリン」の世界初演がリストによって行われました。1857年には、自作の「ファウスト交響曲」、交響詩「理想」、シラーのテキストによる合唱曲「芸術家に寄す」第三稿が初演されています。
ワーグナー「ローエングリン」の初演にあたっては、46回ものリハーサルを重ねると言うほどの念の入れようであったそうですが、ワーグナーはこの作品をリストに献呈し、総譜のマニュスクリプトを贈っています。リストはその前年には、「タンホイザー」の上演も行っていました。また、ベルリオーズ作品も演奏しています。1855年には、ベルリオーズの指揮と、リストのピアノで、リストの「ピアノ協奏曲第一番」が初演されました。また彼はその年に、シューマンの「マンフレッド」、オペラ「ゲノフェーファ」も演奏しています。
もともとピアニストとして活躍してきたリストは、指揮法に関しては独学でありました。彼の指揮法は、当時としてはユニークなものであったようで、厳格に拍節を示すのではなく、表現内容に合わせて楽節やフレーズを重視したもので、体全体で表現していたようです。そして指揮中にスコアを見ることは稀であったそうです。拍子を正確に刻むことが主流であったこの時代に、リストは解釈と表現を重視したものでありました。なので、かなりのリハーサルを重ねていないと失敗する可能性も高かったはずで、実際に1853年にカールスルーエ音楽祭で「第九交響曲」を指揮した際には、オーケストラが混乱してしまい、やり直しの憂き目にあっています。
彼は交響詩をまとめて出版した際、指揮について述べています。「メカニカルで拍子どおりのズタズタな演奏が、多くの場合にまだ一般的ですが、私はそうした演奏をえきるかぎり正したいのです。・・・指揮者の精神的な解釈があってこそ、交響的作品に命が宿るのです。」
このような演奏活動にあたって、リストは聴衆の理解をうながすために、関連する著作を発表しています。またグルックの「オルフェオ」が上演された1854年(この上演に先だって、リストの序曲も演奏されていますが、それがのちの交響詩《オルフェウス》です)には、「グルックのオルフェウス」を発表したり、またウェーバーやシューベルトのオペラを初演した後にも、関連著作を出しました。
こうしてヴァイマル時代の作曲活動と、執筆活動は、宮廷楽長としての活動と密接に結びついていました。(・・・標題音楽へ)
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ピアニストとして一世を風靡していたリストが、全盛期にその活動を止め、それまであまり経験の無かった指揮も勉強し、宮廷楽長として、自作と共に色々な他の音楽家の作品を指揮して、音楽家としてさらに広い視野を持って活躍したリスト。中にはピアニスト活動をやめたことを残念に思っていたファンもいたのではないかな、と思ってしまいます。(私だったらそう思ったかも・・・)
しかし当時の他の作曲家とも非常に親交が多く、シューマン、ベルリオーズ、ワーグナーなどなど・・・彼の社交的な性格も感じられます。他の作曲家の作品もよく研究し、世に広めていった功績も素晴らしいと思います。
「ローエングリン」は、リストが世界初演で振ったのですね。それから晩年まで続くワーグナーとの関係も興味深いものです。
その他にも、同時代の音楽家の支援と、音楽家の利益を守ることを目的として、(当時の)現代作品やあまり演奏されない古典的な作品の紹介、理論書などの出版にも力を注いだリストは、彼らにとっても頼もしい存在だったのではないかなと思いました。