P.L.Aimard の音楽エピソードⅣ |
続きです。(エマールの言葉)
【ブーレーズ、リゲティとの出会い】
ブーレーズが始めた Ensemble intercontemporain に入る事にした理由の一つに、やはり当時私が受けていたピアノの教授法の問題がありました。パリ音楽院でソリストになるための勉強をしていたのですが、私はそこにある「型」のようなものに大きな違和感を覚えていました。物の考え方が非常に狭く、教授法も一方通行でした。その流れに対抗する為に、私は作曲、和声、対位法も学び、声楽の伴奏やオペラのコーチ、室内楽の勉強もしました。学校が私に期待しているピアニストとしての専門性よりも、多彩なものを目指そうと自分に誓ったのです。
その成果の一つは、声楽の伴奏というものがピアニストにとって必要不可欠なものだと分かったことです。伴奏が出来なかったら、シューベルトやシューマンは弾けない、と知りました。先ほど申し上げたように、自分を外に向かって開いていなければ学べない事はたくさんあります。
Ensemble intercontemporain に入る事にした第一の理由は、ブーレーズと仕事をしたかったというシンプルなものでした。
ブーレーズの素晴らしさは一言では表現出来ません。まずは恐るべき耳の良さ。音楽の内部をよく理解し、その過程と構成を見渡して、ある秩序を与える驚くべき才能がある。作曲家としても、知識人としても、行動家としても一流であること。他に類を見ないほど、自らを音楽に捧げていること。
結局私は、18年間そこに籍を置くことになったのですが、そもそも私が結んだ契約は、三分の一のパートタイムというものでした。つまり、Ensemble intercontemporain で活動する時間は、私個人が演奏活動する総時間の三分の一だけ費やせばよい、というものでした。私は30歳になるまでは自分の勉強を続け、さまざまなレパートリーを拡げる事を自分の課題としていましたし、ソリストとしての活動もありましたから、このような契約のもとで所属することが出来たのも、18年間続いた理由かもしれません。
1980年代の中頃からは、ジョルジ・リゲティと「作曲家と演奏家」としての緊密な関係が始まりました。リゲティは慎重な人なので、信頼関係を築くまでには何年もかかりました。80年代半ばには病気をしていたこともあり、「エチュード」の初めの六作と「トリオ」は録音が何度もキャンセルされていたのですが、ブーレーズがプロデューサーになることでやっと実現する事になりました。
リゲティの知名度は80年代からいっそう高くなり、コンサートも頻繁に開かれ、さまざまな賞を受けるようにもなっていたのですが、リゲティは賞を受け取るためだけに出かける事を嫌がり、その際には自分の作品が演奏される事を強く望みました。ですから、1991年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した時も、私は彼のスーツケースに入って日本へと向かい、授賞式で演奏する事になったというわけです(笑)。
リゲティの自由を求める欲望は、ほとんど野生的と言ってもいいものでした。行動にも発言にも独立心が強くにじみ出る人でした。20歳の頃に終戦を迎えた人たちに、それは共通する傾向なのかもしれません。作曲家としては厳しい要求をする人でしたが、友人としては寛大でやさしい。こういった全ての要素が、大きなユーモアに包まれていました。人を惹きつける力は並大抵のものではなかったと思います。
(在りし日のリゲティと、エマール)
(在りし日のメシアン夫妻と、肩を組むエマール)
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現代の偉大な作曲家たちから、直々に指名されて一緒に仕事をしてきたエマール、心から尊敬します。
コメントありがとうございます。本当にシンクロでしたね☆
私も、Musikさんのブログを読ませて頂き、確かにこの団体名を日本語表記すると可笑しいので、私もカタカナは止めました(笑)。
昨日のウィーンでのコンサート、近頃、現代音楽に目覚め始めた私にとっては、凄く羨ましい公演です!とても興味深い演目とメンバーです。私はこの団体の演奏、ブーレーズのCDやDVDでしか聴いた事がありません。ヨーロッパはいいですね!