Franz Liszt Ⅲ マリー・ダグー伯爵夫人と |
【リストの伝記(福田弥 著)を読んで】
リストが、最初にマリー・ダグー伯爵夫人と出会ったのは、1832年頃(リスト21歳頃)でした。当時、パリの社交界を代表する人物のひとりだったダグー伯爵夫人は、ダグー伯爵と結婚5年ほど経った頃で、その結婚生活は表面的なものであったようです。しかし、パリ社交界の花形であり、美しく知性にあふれた彼女と、若く才能あふれる音楽家であるリストとは、自然に惹かれ合ったのではないでしょうか。
当時のパリの貴族は、その多くが結婚後に恋愛を楽しんでいたので、マリーとリストが愛人関係になったことは、話題には上っても、パリの社交界から疎まれるようなことにはならなかったそうで、その間も二人はパリ社交界に出入りしています。
それからリストとマリーは、1835年、スイスへ旅行しました。リストはその時期ポケット帳に日記をつけていて、その旅の二人の動向を把握する資料となっています。二人はそれぞれ別々にパリを発ち、バーゼルで落ち合いました。それからスイスの各地を、馬車で移動しながら、ジュネーヴに住居を定めました。それからジュネーヴではジュネーヴ音楽院で教鞭もとったりもしています。
そして、その年に二人の間に最初の子、ブランディーヌが生まれました。愛人関係にあるふたりが子どもをつくることは当時としても異例だったようですが、出生記録にはリストが父親であることがはっきりと記されていたそうです。
1836年、ひとりフランスへ戻ったリストは、リヨンやパリでの演奏会を成功裏に終わらせ、マリーの待つジュネーヴに戻った。その時の演奏会でリストが弾いた、ベートーヴェン〈ハンマークラヴィーア・ソナタ〉ことを、ベルリオーズが語っています。「新しいオイディプス、リストが、スフィンクスの謎(ハンマークラヴィーアソナタのこと)を解いた。・・・一音たりとも省略も追加されず、・・・テンポの不当な変化もなかった。」と激賞しています。当時の演奏会の曲目は、演奏者の自作の幻想曲やパラフレーズ、協奏曲が主流であり、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを取り上げるようなピアニストは皆無であったそうです。そうした中で、リストが精力的にベートーヴェンのピアノソナタや室内楽曲、ピアノ協奏曲を取り上げていたことは、注目に値すると同時に、評価されるべきことである、と。
またその頃、リストとマリーは、ジョルジュ・サンドとも交流がありました。それから、パリに戻った二人は、ラフィット通りのオテル・ドゥ・フランスに居を構え、ここが新しいマリーのサロンとなりました。そのサロンでリストは、サンドにショパンを紹介しています。リスト自身は以前のようにパリの社交界と音楽界に精力的にかかわり、ショパンが主催した夜会や、ベルリオーズの演奏会に参加しています。また他にも多くの音楽家、芸術家との交流があり、多くの演奏会にも出演しました。
それから1837年(リスト25歳)、リストは再びパリを後にし、マリーと共にサンドのいるノアンに客として滞在します。その後、二人はイタリアのコモ湖畔のベルラージョに落ち着きました。そしてイタリア各地を旅行した際に、リストはさまざまな芸術作品を目の当たりにし、ダンテの『神曲』をはじめとする多くの文学にも親しみました。そしてこの年のクリスマス・イヴに、ベルラージョで、マリーとのふたりめの子ども、コージマが生まれています。(コージマは後に、リストの弟子であるハンスフォン・ビューローの妻となり、さらにその後にはワーグナーの妻となります)
イタリアでもリストは、多くの芸術家との交流があり、演奏会では賛辞を受けています。そして二人の三人目の子、初めての男の子であるダニエルが生まれました。
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スイスやイタリアへの旅において、リストは彼の代表的なピアノ作品を作曲するに至りました。スイスでの思い出より作られた曲は、〈旅のアルバム〉という曲集にまとめられ、後に《巡礼の年第1年・スイス》となりました。そして、イタリアへの旅では、《巡礼の年第2年・イタリア》と、《第2年補遺・ヴェネツィアとナポリ》、そして晩年に作曲された《巡礼の年第3年》の4集から成っています。
私は個人的に、エマールが演奏会で弾くリストの曲が(選曲が)、とても好きなのですが、昨年12月の来日リサイタルでは、このスイスの曲集からも一曲、「オーベルマンの谷」を弾いてくれました。マリーと一緒に見たスイスの大自然と、その時の心情を音に託したといわれています。
タイトルは、フランスの文学者セナンクールが著した「オーベルマン」に由来します。青年オーベルマンが理想と現実との狭間で苦悩し、自己の道を見出すまでの心情が描かれていますが、リストはその著書に深く感銘を受けて、作曲に至りました。
その後、マリーとリストとの間にも亀裂が入り始めます。(つづく)