Franz Liszt Ⅶ 新ドイツ派、標題音楽 |
【リストの伝記(福田弥 著)を読んで】 (つづき)
19世紀の西洋音楽史には、おおまかにふたつの潮流がありました。ひとつは、メンデルスゾーンやブラームスなどに代表される保守的な傾向であり、もうひとつは、革新的な流れで、その旗手として時代をリードしていった音楽家こそ、リストであり、ワーグナーでありました。ドレスデンの革命幇助によって、スイスでの亡命生活を余儀なくされていたワーグナー対し、ヴァイマルで宮廷楽長として公的な活動をしていたリストのまわりには、多くの音楽家やピアノの弟子達が集まりました。リストの取り巻きとなった音楽家には、ラフ、コルネリウス、、コンラーディ、ハンス・フォン・ビューロー、タウジヒ、カール・クリントヴォルトなどがおり、そうしたリストの理想に賛同する一派を「新ドイツ派」と呼びました。
今日では一般に、いわゆる「未来の音楽」を目指した音楽家たち、つまりワーグナー、リスト、時にはベルリオーズまでも含めた革新的な芸術家たちを、保守的なライプツィヒ一派やウィーンのブラームス、ハンスリックと対峙させて使うことが多いそうです。
1815年にライプツィヒで出版された「ローエングリンとタンホイザー」において、リストは、台本だけではなく、言葉と音楽の結合が新しい表現になることを主張して、シラー、バイロン、ゲーテと共にワーグナーを擁護しています。そして新しいヴァイマル楽派の中心的信条は、ゲーテやシラーなどのドイツ古典主義の伝統とつながる偉大な文学作品が打ち立てた規範を支持することであると述べています。ここでリストがその規範を実現しているとみなし、その重要性を主張している作品が、ワーグナーの「ローエングリン」と「タンホイザー」であります。
このような理想を実現する音楽として、リストは 「標題音楽」 を標榜しました。そしてその代表的ジャンルとして、リストは「交響詩」を創案したのです。
「標題」とは何か。当時出版された著作によれば、「標題とは・・・・作曲家が、自らの作品の聴き手を、気ままな詩的解釈から守り、あらかじめ、詩的理念つまり特定の芸術自体に注意を向けることをもくろむものです・・・。」
「標題は、さまざまな詩の形式に正確に対応する多様な性格を、器楽音楽に添えることができます。」すなわち、交響詩とは、その名の通り、”管弦楽による詩” なのです。
ここでリストが述べている詩とは、叙事詩であります。叙事詩とは、神話と結びつき、その「超自然的人物」とは、「英雄」的な存在であり、人類の「心の擬人化」であると、彼は考えました。「標題交響曲を現代芸術にしっかりと根付かせ、オラトリオやカンカータと比肩するほどの重要性を担うようにさせなくてはなりません。」とも述べています。
リストの標題音楽を理解するうえで、ドイツ古典主義や叙事詩についての考え方と並んで、もう一つ重要な事、それは、英雄崇拝論の思想です。彼は民主主義ではなく、強力な独裁者による社会の再編成を訴え、真に抜きん出た個性(英雄)のみが歴史を形成すると主張しました。1835年の著作、「芸術家の立場と社会的身分」の中で、芸術家には社会的使命が必要であると書いていますが、さらにここに、英雄崇拝と言う思想が加わり、特定の地域の天才を英雄視することで、その普遍化を図ったと考えられます。彼の多くの標題が英雄と結びついているのはそのためです。ヘルダーによる交響詩《プロメテウス》 や、シラーによる交響詩《理想》、ヴァルトブルクの伝説によるオラトリオ《聖エリザベトの伝説》は、このようなリストの思想を反映した代表的な作品であるといえます。
誤解してはならないのは、リストのいう「標題音楽」とは、ベルリオーズの幻想交響曲のような描写的な音楽ではないということ。また、標題音楽というと、いわゆる絶対音楽に対峙するものとして安易にとらえられがちではありますが、実は少なくともリストのいう標題音楽に関する限り、両者は抽象性という点で、共通の性格を持っていると考えられます。あくまで、詩と音楽との融合は、抽象的なレベルでの話であると言うことです。
ここでいう「絶対音楽」とは、特定の感情を導く歌詞、標題、機能から解放された自立的な器楽のことで
「詩的なもの」、名状しがたいものを本質とします。さらに重要な事は、絶対音楽の理念には、宗教的性質が認められ、とくにこの傾向は19世紀前半のドイツ・ロマン主義に強くあらわれています。絶対音楽は「絶対者」(キリスト教の神)、キリスト的精神、ホフマンのいう「無限への憧れ」などを呼び覚ますとみなされました。こうした宗教的敬虔こそ、音楽の詩的本質であるとされました。そしてドイツでは教会音楽の改革運動、すなわちチェチリア運動と結びついていくことになります。
一方、標題音楽を掲げたリストにとって、音楽とは感情の表現であり、宗教的な性格をもつ。リストの音楽美学は、ドイツ・ロマン主義者たちの絶対音楽の理念にかなり類似しています。しかしそれがよく理解されていなかったのか、この標題音楽という思想は、当時からさまざまな議論をよんでいました。実際にブラームスらは反対意見を表明しています。ですが少なくとも、リストのめざした「標題音楽」とは、標題の内面性が抽象的な感情であり、描写的な音楽よりも、いわゆる今日的な意味での「絶対音楽」により近い関係にあるとみなすべきであります。
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リストはフリーメーソンへも入会していたり、明確な思想を持った音楽家であったのだなと思います。特に、英雄崇拝論などは、ワーグナーに、より強く感じられるような気がしますが、彼らは音楽家としても、大きく影響し合っていたのだなと、あらためて思いました。詩と音楽の融合、「交響詩」は、これから少しずつじっくりと聴いてみたいと思います。