Franz Liszt 13 次世代の作曲家たちとの交流 |
リストのもとには弟子ばかりではなく、次の世代を代表する多くの作曲家達もリストを表敬訪問しています。フランスの作曲家では、マスネ、ダンディ、ドリーブ、それからサン=サーンスとは、私的に連弾を楽しんだり、しばしば往復書簡を交わすなど、親しい交流を続けました。彼のオペラ「サムソンとダリラ」の初演に向けて尽力したのは、リストでした。サン=サーンスもリストのいくつかの作品を編曲しています。《伝説》の「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」のオルガン編曲は、今日のオルガニストのレパートリーとなっています。また「オルフェウス」のピアノ三重奏曲への編曲など。
フォーレやドビュッシーとも交流がありました。ドビュッシーはリストの印象主義的ともいえる「エステ荘の噴水」を聴いて大きな衝撃を受けたといいます。
次にドイツの作曲家。1874年にウィーンでのビューローのオール・ブラームス演奏会で、ブラームスと会っています。しかし当時この二人は、十九世紀後半のふたつの対峙する流派をそれぞれ代表する立場に位置づけられていました。おそらく二人はお互いの作風にあまり興味が持てなかったようです。
またブルックナーとは、1885年にウィーンで会っています。この時のブルックナーの要望に応え、第七交響曲のアダージョが全ドイツ音楽協会で演奏されるように手配しています。
ノルウェーのグリーグは、ローマにいるリストのもとを訪れ、ピアノ協奏曲イ短調のスコア(手稿譜)をリストに見せると、リストはその手稿譜から初見でピアノを弾き、第三楽章の最後のアンダンテ・マエストーソで旋律が嬰トからトに変わる箇所で、「Gis でなく G 、すばらしい!これこそが真のスウェーデン的なるものと言うべきものです」と感嘆したといいます(当時のノルウェーはスウェーデン領)。そしてグリーグを賞賛し激励しましたが、それがグリーグ自身の心の支えになったといいます。
さらにブゾーニ、スペインのアルベニス、アメリカのマグダウェル、シュトラウスⅡ世など若い世代の音楽家達も、ひっきりなしにリストのもとを訪れたり、自作を郵送してきたりして、そのたびにリストは紹介状を書いたり、作品が演奏される機会を作ったり、出版社に推薦したり、書簡で講評や修正へのアドヴァイスを書いたりしています。一方でリストも彼らから刺激を受けたはずであります。中でも彼が特に興味を示したのが、ロシアの若い作曲家達でした。
リストが最も傾倒したロシアの作曲家は、いわゆる「五人組」でした。リストはチャイコフスキーよりも五人組を高く評価していましたが、これはおそらく和声や響きの点で五人組の作品のほうが、よりリストの興味をひいたためと思われます。五人組の指導者バラキレフとは、面識はなかったものの、お互いの作品を高く評価しあっていました。特に彼の「イスラメイ」はリストのお気に入りでした。バラキレフもリストの「ダンテ交響曲」を指揮しています。以後ロシアでのリストの影響が大きくなったといわれています。
またムソルグスキーとは直接会うことはなかったものの、彼の歌曲集「子供部屋」をリストは高く評価しました。
リムスキー=コルサコフは、ピアノ協奏曲をリストに献呈したなど。ボロディンとも互いに尊敬しあう仲でした。リストがピアノでボロディンの交響曲第一番を弾いた時、作曲者自身が「経験不足」「過度の転調」などと非難されていると述べると、リストは「このままで良いのです。何も変更する必要はありません。あなたの転調は風変わりでも間違いでもありません」と述べたそうです。このボロディンもリストに曲を献呈します。
このように多くの若い音楽家がリストのもとを詣で、リストも彼らに惜しみない援助をおくりました。十九世紀後半、リストはまさに音楽界の中心人物とみなされていたのです。それほど彼の言動は注目の的でありました。1879年の「新自由新聞」では、ある演奏会にリストが入って来た時のことを次のように語っています。その日の演奏会では一聴衆にすぎなかったリストを、聴衆は示し合わせたかのように大喝采をもって迎えたのです。「ヨーロッパ中を探してみても、リスト以外に誰もリストたりえない。・・・いったいなんという魔力が、相も変わらずこの老齢の人物を包み込んでいることだろう!」
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写真は、今年の二月にパリで立ち寄った、レ・アル駅そばの教会で、リストも弾いたオルガンのある、サントゥスタッシュ教会です。
7000本のパイプを持つオルガンで、時々オルガンコンサートも行われているそうです。